言葉のキャッチボール

以前言葉のキャッチボールに関して

書いたことがあったのだけれど

そこからさらに加えて

気づきがあったから書いてみます。

 

「キャッチボールが出来ない人」は

気持ちよくないようなことを

表現していたけれど

まあホント

それすらも主観なんだよね。私のね。

というより

このブログに書いていることは

もちろん私の主観なわけで。

 

そもそも

キャッチボールをするつもりがない人に

キャッチボールしようだなんて言っても

興味ないんだからするはずもなくて。

 

一時的に興味のあるフリをしてみたり

合わせようとしてくれたり

することもあるかもしれないけど

基本的にはすれ違うのが当然というか。

 

そこに大変な熱意を向けるというのは

これまたこっちの強制というか

勝手な思いだもんだから

尚更受け取ってはもらえない。

 

じゃあ

どうしたらいいのってところなんだけど

問題を問題として捉えてるところ自体が

問題なのかもしれないなと。

 

話聞けない人

話ぶつけてくる人

 

直そうとしたり

聞こうとするからしんどいわけで。

 

放っておく

見守る

時間を置く

 

こういうのが苦手だったりするんよねー。

 

不快な気持ちを

そのままにする方が

しんどいからそうしちゃうんだけど

相手を動かそうとしても動かんから

更にストレスを重ねる。

 

個と個を

人数が増えれば増えるほどに

バランスを取ろうとすればするほどに

ぎこちなくなっていく。

 

ま、私は

キャッチボール出来る人と話したい。

で、出来ん時ね

それとせん人に対してね

あーだこーだせずに

カオスを味わってみて

笑えるならそれはそれ

笑えないなら退散。ってとこかな。

 

あと

いじわる発動した時は同じことしちゃる。

フリーズ具合がおもろいよ。

 

いじわるのつもりなく

聞いて欲しくて自分がぶつける側に

なることもあるかも。あるね。

 

通じ合わない人と

話さなければいけないシーンって

「通じ合わない」が前提で起きてるから

自分の思い込みを外すのが

大事なポイントになるね。

 

合う合わないでものごとを見ない。

私はキャッチボールが出来る人希望

なだけ。

あくまで希望。

私の思いは私の主観でよき♡

でも、相手にも相手の価値観があること

もしくは何もないという名の

(それも価値観としておこうか)

無の境地があることも忘れずに。

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