「気」の状態で起きること

面白いなぁ

血や水も

身体の中を巡っていて

外から見えない

けど

気は特に見えない感じ。

 

わたし的感覚で言うと

直接は見えないけど

全体的に見るというか。

 

私が感じてきたことの

答え合わせの様なことを

最近はずーっとしていて

 

自分の「気」を

整えられるようになってきた。

 

外側からきているもの

身体が訴えている不調

これも全て

自分で巻き起こしていること。

 

私なり簡単解釈では

カッとしたりのぼせたりは

「気逆」

むくみとか滞っていてもイライラはあって

あーこっちが先か

「気滞」

これが起こって登っていって

気逆になるのかも。

 

ダルおもは

「気虚」

 

漢字ってすごくて

その直接見えない気を

色んな形で表現してる

「元気」「気持ち」とか。

 

良い悪いでなくて

あくまで状態を冷静に表現していて

気だけではなくて

血と水も一緒に見るのが

東洋医学なんだろう。

 

「ちゃんと」じゃなくて

感じるを採用してるので

私の感覚のみなんだけど

 

イライラするのって

人にイライラしてるのに見せかけて

自分にイライラしてんのね。

 

「気のいい人」とか

あんま良いふうに使われない

言葉だったりする時もあるけど

本来、良い状態を指すのかも。

 

陰陽を付け加えて

「陽気」「陰気」なんて言葉もあるね。

 

あんまりに良すぎなのも不自然で

常にフラットなのも妙でしょう

 

季節が移りゆく様に

私たちも変化している。

 

それを

気づいたり

受け止めたりする連続が

生きるってことなんじゃないかなと思う。

 

歴史が長くなればなるほど

積み重ねてきたデータも増えるもんだから

先祖のやり残したこととか

自分じゃない意識も多いかもしれないけど

 

結局は

そこを紐解くかどうかも

今の自分にかかってる訳で

引っかかって進めないなら

まるっと自分として

やってくのが

遠回りに見えて

実はスムーズなのかもしれない。

 

しんどいことつらいこと

なるべく回避したい

好転反応と捉える

 

その時々で

受け止め方違うけど

それ、起きたの

なんか予兆あったよねって

 

逃げてきたり

頑張りすぎてたり

そこ

向き合わずいたら

繰り返されるだけだから

 

あと

先祖でなくて

人の課題を

あたかも自分のものとして

捉えたりね。

 

トラップというか

わざわざ遠回り

いっぱいしてきたなぁ。

 

私は

身体は完全に治るものを目指してたり

治らないと知ると

雑に扱った過去を悔やみ

落ち込んだりしたけど

 

ラクになれること

扱い方次第なことを

サポートしてもらって

何がって

やっぱり私は自分の「気」が

扱えてなかったんだと思いました。

 

鍼灸院や、リンパケア

歯医者さん、美容院など

お世話になっている

技術もそうだけど

考え方や

なにより「施術者」が持っている「気」が

自分の共鳴してるから

そして

うまいことミックスされて

こんだけ整ったんだと思う。

 

すぐ崩れるし

整ってないのが悪いとかなくて

通ってるところも

コンディションイマイチって

すぐわかることもある。

 

そーゆー時

あ、ダメ

とかじゃなくて

こーゆー時もあって人間らしいなぁ

そう思える様になったのも

積み重ねてきたおかげだと感じた。

 

気逆も気虚も気滞も

完全になくなる訳ではなくて

一年のうち

癖のように出てくる時期があったり

負荷がかかると出たり

まぁデリケートな訳で。

 

常に整えてなきゃいけないと

思ってた時はきつかったけど

人間くさい感じでいいのかーと

ある意味諦めたら

ものすごい楽だったし

楽しみに目を向けることが

出来るようになった。

 

気がついたら

悩みの種だった

人間関係も

何が悩みだったのか

わからなくなっていき

 

特に、母との関わり方が

大きく変化したと思う。

他人にはわからないくらい

微細な空気感なだけだけれど

私には

とても、とても大きなこと。

 

母が昔見せた

被害者意識の様なものたちは

母だけのものじゃなくて

積み重ねてきたもので

私は知らずに受け継いでた。

 

いるのか

いらないのか

自分で決めれることを

諦めていた。

 

それが

現実に現れていたのだから

まぁしゃーないね。

 

母は毒が抜けたように

柔らかく穏やかな人に。

本来そうだったんだろう。

 

年の功と環境

それも大いに関係あるだろうけれど

それすらも

自分で選べるということを

私は母を見て感じた。

 

それには

今も続けている

実家の大片付けと

畑をすることが

前提にあったことを忘れてはいけない。

 

私は

ずーっと

悲しみや寂しさを

怒りに変えて

人のせいにしたくないと言いながら

人のせいにしてきた。

 

自分の「気」は

出てきている状態から

自分で気づき

整えることがいつでも出来て

乱れたとしても

それはそれで

やっぱり誰かじゃなくて

自分だから

ごめんねって

向けた相手に謝って

ありがとうって伝えて

そこまでがストーリーだと思う。

 

最初の怒りから

ありがとうまでは

短い方がいい。

 

人生のドラマの中で

対人への後悔は

運命がわからない分

自分への負荷になることがあるから。

 

あの時伝えればよかった

もっと優しくすればよかった

 

向けた気が

そのまま自分にかえる。

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